「めんどくさい」の口癖は不幸でしかないという話 ~あるエントリーの炎上を見て~

こんにちわ!ぷどりです。

私が若い頃頻繁に言っていた言葉で、今は絶対に使わない言葉があります。それは「めんどくさい」です。

急に何故こんな話をしているのか。少し長い話ですがお付き合い頂けると嬉しいです。

あるエントリーが炎上

まずきっかけですが、はてなブログのエントリーを見ていたところ少し話題になっている記事を見つけました。

mukiryoku7.hatenablog.com

このエントリーを要約すると、
・母親の勧めでアルバイトの面接を受けようとしたが遅刻しそうになった。
・バックれようと思ったが母親と約束しており、言い訳が面倒なので行った。
・案の定遅刻して店長は遅刻の原因を追究。著者は耐えられなくなり「うるせーなあ!」と吐き捨てて逃亡。
・これについて著者は「20歳の若者に不機嫌な態度をとるなんて大人げない」「あの店は健康に悪いので行かないほうが良い」と悪態。
といった内容です。この著者の態度が話題となり炎上しています。

率直な感想「著者と過去の自分は似ている」

これについて酷い内容だなと思う反面、正直過去の自分を思い出すようです。

告白しますが、私自身もアルバイトをバックれたことがあります。当時私は「こんな低賃金で雇うんだから、これくらいのリスクは店長も承知してるだろう」という滅茶苦茶な理屈で自分を正当化していました。この記事を読んで、そのことを思い出して大変恥ずかしい気持ちになりました。

著者と私の共通点

この著者と当時の私と共通しているところは多分にあると思います。その中で最も大きいのは「俺がこんなひどい態度をとるのは世の中にその原因があるからで、俺自身は悪くない!」という他責の考え方です。

この他責の考え方は非常に不幸であり、決して自分の成長に繋がりません。いつまでたっても社会が求める最低限のスペックに到達できない要因となりますので、最終的には社会と断絶せざるを得なくなります。

他責はファクトフルネスの「犯人捜し本能」によるものか

このエントリーを見て、さらに思い出すことがありました。最近読んだ本ファクトフルネスにおける、人間には「犯人捜し本能」があるという趣旨での以下の一節ですが、これがまさに他責に捉われた不幸を象徴していると感じました。

なにか悪い事が起きたとき、 単純明快な理由を見つけたくなる傾向が、 犯人捜し本能だ。わたしも 最近ついそうしたくなることがあった。ホテルでシャワーを浴びているとき、湯の温度を上げようとしてハンドルを目いっぱい回してしまった。最初はなんともなかったが、すぐに熱湯が出てきてやけどしそうになった。まず配管工に頭にきて、それからホテルの支配人に、そして隣の部屋で冷水を流している客に怒りの矛先を向けた。でも、誰も悪くない。誰かがわざとわたしを傷つけようとしたわけでもなければ、気遣いが足りないわけでもなかった。悪いのはおそらくわたしで、もっとゆっくりとハンドルを回して湯の温度をちょっとずつ上げていけばよかっただけだ。

  引用元:ファクトフルネス

この場合も、たとえホテルの支配人をぶん殴って溜飲を下げても、ハンドルを回して湯の温度をちょっとずつ上げていくという「自身の改善」をしなければ、今後も全く同じ痛い目に遭うことになるでしょう。他責に捉われた人間は、他人から見ると非常に分かり易く、滑稽だということがよく分かるかと思います。

著者(過去の自分)への唯一のアドバイス

著者(過去の自分)に対して一つだけアドバイスできるとすれば、「めんどくさい」という言葉を禁句にしてほしいということです。

このエントリーにも、「めんどくせ~」といった、という記載があります。この著者はしょっちゅうそんな言葉を使っているんだろうなあという印象を持った方も多いかと思います。私もまさしくそのように思いました。

自分のダメなところを改善するために考える作業は、地味かつ「めんどくさい」ものです。「めんどくさい」という口癖が身についていると、その言葉に自分自身が翻弄され、何とかその作業をしないで済むための言い訳を考え始めてしまいます。その言い訳の一つが他責(犯人捜し本能)ではないかと私自身は考えています。

私は、恥ずかしながら20代の時は「めんどくさい」を多用していました。「めんどくさい」を禁句にしてから、何か自分の落ち度があった場合に、いったん間を置いて、自分の何がダメだったのかを考えることができるようになりました。
「めんどくさい」と言っていろんなことから逃げている限り、何度も同じ「めんどくさい」事柄に遭遇するのです。